西洋骨董大辞典

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ウジェーヌ・ドラクロワ(うじぇーぬ・どらくろわ)

1798年、パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス) に生まれた。父は外交官シャルル・ドラクロワだが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーランが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある。

新古典主義の画家ゲラン(en)に入門し、1822年、『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。
グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。
この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあった。

1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。
1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。
1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。

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