18世紀中頃から19世紀初頭に学者として活躍しました。山東省の出身で、号は未谷と称しています。
50歳の頃に科挙に合格して知事となり、在任中に亡くなっています。合格までに時間はかかりましたがその有能さは早くから知られており、33才の時に教授候補として推薦され、文教の振興に勤めました。
文学や書、篆刻をよくしましたが、中でも文学は学者として作品を多く残しており、自身の研究をまとめた50巻に及ぶ『説文解字義證』や、篆刻技法の入門書として執筆した『三十五挙』、『続三十五挙』などの著書を残しています。
対して篆刻と書は残っている作品は多くはありませんが、書は隷書のものがよく見られます。