18世紀半ばから19世紀前半に活躍しました。浙江省の出身で、書や絵、篆刻など多くの分野で才能を発揮しています。号は種楡道人や曼生、曼寿と称しました。
34歳のときに学者として推薦されたことで官僚となり、のちには江蘇省や山東省で長官を務めました。晩年は在職中、55歳で亡くなっています。
書においては隷書や行書に優れており、個性的な作風が人気を博しました。また、絵においては山水画を得意としています。
中でも、篆刻については西泠後四家の一人としても数えらており、溧陽県の長官を務めた際その特産であった砂壺(急須)から新たに15種以上の形を考案するなどし、装飾に篆刻を用いる技術を考案しています。これによって自ら銘を刻した茶器は「曼生壺」と呼ばれ人気を集めました。