明治の最後、44年に生まれ、平成8年にかけて活躍した芸術家です。昭和後期に開催された大阪万博に芸術作品『太陽の塔』を制作展示したことでも有名です。
岡本太郎の歴史
神奈川県に生まれた岡本太郎は、漫画家と小説家の父母という一家に長男として生まれました。幼少期から家庭環境は複雑で、小学校も都内で転校を繰り返していましたが、慶応義塾の普通部を出ると、東京美術学校へ進学しています。これは幼い頃から絵を好んでいたためでしたが、半年ほどで同校を辞めてしまうと、翌年には両親の渡欧についていき、まもなくフランス・パリでの一人暮らしを開始しました。
現地ではまずフランス語を学びながら語学学校で生活し、並行してパリ大学の教授に美学を学んだほか、大学入学前から岡本太郎自身の疑問であったいわゆる“絵を描く理由”を探求するため文化人類学者の元にも訪れていたと言われています。その後岡本がパリで偶然パブロ・ピカソの作品を目にしたことがきっかけとなり、“絵を描く理由”の探求に転機が訪れ、以降はピカソを超えることを目標に自身の制作活動に励んでいきます。抽象画をメインに制作し、1932年にはサロン・デ・シュールアンデパンダンに参加。また芸術科集団アプストラクシオン・クレアシオン協会にて、当時ヨーロッパで活躍していた画家たちと交流したほか、この頃からパリ大学民俗学科にて学び始めしました。
パリ大学を卒業後、岡本太郎は第二次世界大戦を機に日本に帰国しています。二科展にフランス滞在中の作品を出品するなど帰国後も芸術活動は続けますが、復員後に日本の美術界の在り方に反発し、芸術活動のほか執筆や講演でその主張を行いました。終戦後、37歳の時には日本の文学者たちと共に「総合芸術運動」を目的とした夜の会を結成。40代初めの頃には再度フランスに渡っていますが、約半年間の滞在後は、拠点を日本に戻し活動を行っています。1953年からは連続でサンパウロやヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表となったほか、東京都庁に作成した壁画がフランスの建築雑誌の国際建築絵画大賞を受賞するなど、国内外で活躍しました。
また52歳からはヨーロッパとメキシコやアメリカ、また韓国や中南米を周遊し、1967年、日本で行われる万博の展示プロデューサーに任命されました。こうして1970年の万国博覧会のテーマ館展示を成功させ、岡本太郎は国内でも芸術家としての地位を確固たるものとしています。
以降も晩年まで個展の開催やモニュメント、壁画の制作を行い、テレビ番組にも出演するなどの活躍を見せ、1996年、84歳で息を引き取りました。