19世紀前半から19世紀後半まで、書画家や篆刻家として活躍しました。浙江紹興の出身で、号は梅庵、冷君、憨寮、悲盦と称しています。裕福な家柄に生まれ幼少期は勉学に励むのには恵まれた環境でした。その為、科挙を目指しましたが太平天国の乱に巻き込まれたこともあり、幾度かの科挙試験は失敗に終わっています。
書は当初は顔真卿を学んでいましたが、科挙を諦めた之謙は北京に上京し、そこで金属や石に刻まれた碑文を研究する金石学を学ぶこととなります。そうした流れで北魏を中心とした金石文である北碑にも触れることとなり、楷行の一つである北魏書の祖となりました。
書は金石学の古典を継承しつつ草書法を合わせた革新的な作風です。また篆刻にいたっては魏晋南北朝時代の書も取り入れた画期的なもので、平凡化していた篆刻芸術界に一石を投じました。