和骨董大辞典

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明治の工芸品 その4 ~金工~

 

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金工とは、金属を加工してそこに様々な技法を加える工芸技術です。

日本には5世紀頃に青銅器や鉄器が伝わって以来、製鉄技術が磨かれ、2種類以上の金属を合わせた合金を使った、様々な技法が発展しました。弥生時代の銅鏡や鎌倉時代の刀剣、室町の茶釜を経て、明治時代には廃刀令で職を失っていた刀装の金工たちが活躍しました。

 

 

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ウィーン万国博覧会では日本の伝統工芸品が人気を博しましたが、特にこの金工への称賛は大きかったと言われています。当時西洋では、金工作品と言えば銀やブロンズの鋳造品ばかりで、日本のように様々な金属を使った高度な彫刻や加工品はなく、万博で日本が出品した金工品は、販売も展示も大盛況でした。

 

 

 

明治の金工家

 

☆正阿弥勝義(しょうあみかつよし)

明治時代を代表する金工家です。彫金師であった父に幼いころから彫金を学び、岡山藩で刀装具を制作していましたが、廃藩置県と廃刀令によって彫金師達は職を失っていきました。しかし勝義はその技術を活かし香炉や花瓶、茶器などの美術工芸品を作ることで生計を立て、ウィーン万博で作品が人気を得ると自ら輸出産業を始めます。彼の作品はその高い写実性と精緻な彫金を特徴としており、金属による色彩の豊かさも見どころの一つです。当時は地方の名工、という位置づけで国内ではあまり高い評価は得られなかったようですが、現代日本に残る数少ない作品は美術館や博物館に所蔵されています。

代表作には、シカゴ万博で銅賞を受賞した『雪中南天樹鵯図額』や、金・銀・黒色などの羽根が美しく描かれ、写実的な菊花と雄鶏の彫刻を施した蓋が付いた『群鶏図香炉』などがあります。

 

☆加納夏雄(かのうなつお)

幕末から明治にかけて活躍した金工家です。12歳から彫金の修行を始め19歳で独立し技術を磨くと、後に腕を買われ、明治天皇の太刀飾りの制作や新貨幣のデザインと型の制作などを命ぜられるまでとなります。その後、廃刀令により彫金師が仕事を失う中でも彼の作品の人気は続き、制作を続けると共に、帝室技芸員、また東京美術学校彫金科の教授にも選ばれ、後進の育成にあたりました。

代表作には彼が得意とした片切彫りと呼ばれる技術を用いて、筆で描いたような線で鶴を表現した『百鶴図花瓶』や、銀時計に芍薬の花を表現した『芍薬図懐中時計蓋』などがあります。

 

☆海野勝珉(うんのしょうみん)

幕末から明治にかけて活躍した金工家で、幼いころから水戸藩士であった叔父や、同藩士の金工荻谷勝平に彫金を学び、1876年に東京で独立しました。加納夏雄と同じく片切彫り、また2種類以上の金属を組み合わせて色彩的なデザインを作り出す象嵌という技術に長けており、立体的な表現を得意としています。1890年には第3回内国勧業博覧会で、雅楽の曲目の1つにある登場人物をモチーフにした金工の置物『蘭陵王』を発表し、妙技一等賞を受賞しました。翌年には東京美術学校の助教授となり、1896年には帝室技芸員に任命されています。

代表作には前述した『蘭陵王』の他に、同じく金工の置物で1900年のパリ万博へ出品された『太平楽置物』があります。

 

 

 

同時代に活躍した金工として、加納夏雄に師事し彫金術を学んだ香川勝広塚田秀鏡がいます。香川は万葉集の和歌をモチーフとした作品『和歌浦図額』などを制作し、東京美術学校の教授となり、塚田は多くの万国博覧会で賞を受賞しながら『鶺鴒躑蠋図煙草箱』などの作品を制作し、2名とも帝室技芸員に任命されています。

 

また、明治の工芸品を扱う輸出産業において、制作も行ったことで特に注目された会社として、駒井音次郎が制作を始めた京都の「駒井」があります。鉄地に金や銀の細かい薄板を叩き込む布目象嵌を得意とし、欧米人向けに東洋風で緻密な金工作品を制作しました。代表作に、三本の長い脚それぞれにも細かな紋のついた『草花文布目象嵌香炉』があります。

 

 

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