和骨董大辞典

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五十嵐蠧仙(いがらしとせん)

 

 

江戸時代、寛政の時代に生まれた絵師です。

多才であり、作品も幅広い題材を描いていますが、中でも馬に乗った武者を描いた作品を得意としており、代表作には『後三年之役絵巻』などの戦記物があります。

 

 

五十嵐蠧仙の歴史

 

五十嵐蠧仙は1793年に秋田県に生まれました。生家は農家であり、平民でしたが、幼少期から見事な絵を描いていたと言われています。その才能が秋田藩の重臣にも知られるようになると、10代前半の時には推薦を受け、当時秋田藩の藩主に絵の手ほどきをしていた絵師・狩野秀水の弟子となって修行し、ここでは“秀岩”の号で作品を制作しました。

そして数年後、16歳で上京。江戸では狩野秀水の兄弟である菅原洞斉に師事しています。菅原洞斉は絵師でもありましたが鑑定家、また文化人としてもその名が知られており、妻は南画家・谷文晃の妹であったことなどから、当時の画壇の中でも有名な人物でした。五十嵐蠧仙はここでより本格的に絵を学び、また、菅原洞斉からの教えだけでなく、師の鑑定家としての伝手から目にした神社や寺院、名家の歴史的な宝物や名品を研究。積極的に模写や読み込みを繰り返す中で、幅広い流派の技法を身に着けていったと言われています。また、武者絵をよく描くようになったのもこの頃からと言われており、しばらくは江戸で絵師として活躍していきました。

 

やがて40代になると、五十嵐蠧仙は故郷に戻っています。その後45歳頃には、数年間近隣の地域に滞在して絵描きの仕事をこなしたほか、地元の名家の夫婦と共に2年かけて全国を遊歴。その後、50代の頃に五十嵐蠧仙を10代の頃に推薦した重臣・多賀谷家の絵師となっており、56歳の時には京都に訪れ仁和寺の宮家への御機嫌伺いを許され厚遇され、絵師として法橋の位も授けられました。またこの間に号は“秀岩“から“都仙”、“蠧仙”と変わっており、以降の作品には“法橋蠧仙”の印が押されていきます。

位を授けられてからも五十嵐蠧仙は積極的に絵の研究に努め、京都の名画を学び、また武者絵を得意としていたため甲冑や古来のしきたりに関しても詳しく、同時代の者の中ではその知識にかなう人物はいなかったのではとも言われています。

 

その後京都から再び帰郷した五十嵐蠧仙は、家のすぐ近くに画室を建て、晩年まで故郷の風景や草花、人々の暮らしを描いて暮らしました。老いても視力は衰えず細かな筆致の作品を作り上げ、一方で尺八も嗜むなど芸に秀でていたと言われています。生涯に弟子を一人とり、画材などは全てその弟子に譲り、やがて1865年に73歳で息を引き取りました。

 

 

 

狩野秀水と菅原洞斎の兄弟

 

五十嵐蠧仙が絵を学んだ狩野秀水と菅原洞斎は兄弟で、双方御用絵師を務めるほど腕前を認められていました。

兄の狩野秀水は、秋田藩主の御用絵師で、前述の通り、藩主にも絵を教えています。生没年は明らかになっていませんが、1800年代の初頭にはすでに御用絵師として認められており、五十嵐蠧仙のほかにも重臣に仕えることとなる絵師を育てました。

一方で弟とされている菅原洞斎は、五十嵐蠧仙とは約20歳差で、1772年の生まれと言われています。狩野秀水と同じく御用絵師を務めていた反面、自ら古い書画を扱う会合を定期的に開くなどして、当時の画家達とも広く繋がりを持っていました。こういった親交もあって、鑑定家として絵師たちの伝記などを集めた著書も出版しています。

 

 

 

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