和骨董大辞典

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東東洋(あずまとうよう)

 

江戸時代後半に生まれた絵師です。

多方面に修行を積み仙台藩に仕えたほか、近代における仙台の4大画家としても名を残しています。

 

 

東東洋の歴史

 

東東洋は1755年に宮城県に生まれました。父は学問と絵に通じており、絵師では無かったものの、現在でも遺されているほど見事な作品を描いたり、土佐の御用絵師であった中山高陽が訪れ、2人で絵画の評論を楽しんだほどの人物です。そしてこれらの影響もあり、東東洋は絵に興味を持ち、10代半ばの頃には本格的に絵を学ぶようになりました。

 

絵を教えた狩野派の絵師・狩野梅笑は、中部から東北地方にかけて遊歴している最中に東東洋に教えたと言われており、それから約3年後には2人で東京に移っています。この転居と同時に東東洋は狩野梅笑の婿となり、「東」の苗字を受け継いだほか、自身の初めての号である玉河のうち「玉」の字も狩野梅笑の号からとるなど、非常に縁の深い関係となっていきました。

 

このように狩野梅笑から狩野派の表現について学んでいった東東洋でしたが、その後20歳の頃になると、それ以外の技法についても積極的に学んでいきます。まず京都では、文人画家の池大雅から中国の清時代に広まった絵手本を学び、以降は中国の絵を模写しながらその画法を学習。また20代の終わり頃からは、拠点は京都に置きながらも長崎で中国人画家から教えを受け、並行して日本の多くの絵師に影響を与えたと言われる南蘋(なんびん)派も学んだと言われています。

 

やがて京都に戻ると、始めに学んだ狩野派の影響よりも当時活躍していた円山応挙による影響を強く受けていき、その画法を駆使して描いた作品によって、40代の時には優れた者に授けられる位である法眼位となりました。

この頃にはすでに絵師として名を広めていた東東洋は、円山派の開祖である円山応挙や四条派の開祖である呉春、その他文化人たちと並び、皇族の下にも出入りするほどだったと言われています。

その為まもなくその才能が周知され、東東洋が40代前半の時には仙台藩に仕え始めました。一月後には早くも藩主の前で絵を披露したほか、江戸にある屋敷の衝立などを始めとして多くの作品を制作。50代で仙台城の障壁画、さらに60代では藩校の壁画を描き、御用絵師として大役をこなしていきます。70代になると故郷に戻り、以降も仙台藩に仕え続けますが、晩年は藩内の重臣らの肖像を手がけていました。

 

そして1839年、85歳で息を引き取っています。

 

 

 

東東洋の息子たち

 

東東洋は前述のとおり、御用絵師として活躍し仙台を中心に名を残しましたが、その息子たちも絵師となっています。長男の東東寅(あずまとういん)は東洋が30代後半の頃の子で、父と同じく狩野派の絵師に指示して絵を学んだと言われています。人物画や花鳥画を得意としており、仙台藩で画員として仕えました。

また東東莱(あずまとうらい)は東洋が50代の頃に生まれた次男で、こちらは東洋から四条派の画法を学んだようです。やがて文人画も描き、詩文も嗜むなどし、東東洋の後を継いでいます。

 

そして東東寅も東東莱も、どちらも得意とする絵は異なるものの優れた絵師として活躍し、東洋の法眼に継ぐ法橋の位を授けられました。ちなみに東洋は幅広い画法を体得しながらも農村の風景を好んでいたようですが、中でも特に鹿を多く描いています。

 

 

 

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