17世紀に活躍した画家で、僧でもあります。安徽省の出身で号は漸江や漸江学人、鴎盟、無智と称しました。明時代に科挙試験の受験資格を得ながら官位を与えられましたが、在任中に清時代への変動期を迎え、混乱が起こり、弘仁は亡命したと共に出家しています。武夷山の禅師であった道舟の元に滞在し、やがて故郷でいくつかの寺に住みました。
絵においては、武夷山での修行中にも修練を欠かさず、元時代の画家黄公望や倪瓚に影響を受けた作品を多く残しています。梅花や竹、あるいは山水画を多く描いており、微細な線で表現する、静かで簡潔な画風が特徴的です。
また、書は顔真卿や倪瓚の諸をよく研究し、楷書や行書の作品をよく残しました。