17世紀後半から18世紀中頃に画家として活躍しました。山東省の出身で、号は南村、また晩年は南阜、尚左生などと称しています。44歳の頃に考友端方という推薦制度によって官位に就き、安徽省の知事にまでなりました。しかし失言が原因で退官となり、その後は揚州にて芸術活動に勤しんでいます。
高鳳翰は書や篆刻、絵など様々な分野で優れた才能を発揮しましたが、50代中頃に右手を病で負傷してからは、左手を使った勢いのある作風を確立しています。絵においては山水画や花卉画をよく描き、書は草書を得意としました。
その他詩集の出版、硯の収集、篆刻などもこなし、清時代に揚州で活躍した8人の文人画家を指す『揚州八怪』の一人としても挙げられています。