16世紀に文人として活躍しました。浙江省の出身で、天地や天池漱生、青藤、海柳仏など他にも数多くの号を持ちました。
幼少期から英才教育を受け、経学から楽器、剣術など様々な分野を学んでいましたが、庶子であった徐渭の生後間もなく父は亡くなっており、続いて当時10代半ばで、育ての親であった嫡母も失っています。その後20代の頃には家塾を開きながらなんとか生計を立て、30代で倭寇の討伐に参加し功績が認められたことで高級官僚の秘書官となりました。
しかし、やがて後ろ盾となっていた官僚を失ったことで精神を病み、自殺未遂を重ね妻を殺害するなどして拘束されています。釈放後は友人らと国内を交遊し、芸術活動に没頭しました。
精神的に不安定であった徐渭ですが、芸術の分野では素晴らしい才能に恵まれ、自身を「書は第一、詩は二、文は三、絵画は四」と評価しています。
書は宋代の書家を手本とした行書や草書に優れ、絵画においては大胆な画風の花卉画などをよく描いています。この水墨の花卉画には、自身の詞を書き込んだものが多く見られます。