19世紀末から20世紀中頃にかけて活躍した革命家またはジャーナリストです。筆名に、爛柯山人や黄中黄、青桐などがあります。
20歳の頃に両湖書院で学んだ後、塾の教師をしながら軍事を学び、22歳の頃には革命組織『華興会』を発足させました。その後日本とイギリスへ渡り、それぞれ英文と政治を学んでいます。
辛亥革命中には中国に帰国し、革命の最中仲間たちといくつかの雑誌の創刊に勤しみました。孫文派として革命にも参加し、いくつかの革命組織で積極的に活動しましたが、章士釗が47歳の頃、国民革命軍の北伐官僚を受けて指名手配される身となり欧州へ逃れています。
やがて2年後には政治家の張学良より招かれ帰国し、東北大学の文学院院長や上海法政学院の院長などを歴任しています。日中戦争の最中は国民参政会の参政員、中華人民共和国成立後には、中央文史館館長や全国人民代表大会代表を務めました。最晩年は香港で過ごしています。