19世紀に画家として活躍しました。浙江省の出身で、号は井東居士や鹿床、棆庵などと称しています。31歳の時に科挙に及第し、その後は詔書の起草や教育などを司る役職に従事しました。
1851年に起こった太平天国の乱では、自衛を目的とした武装集団「団練」を組織しましたが、約10年後、軍が戴熙のいた杭州を襲い陥落させられると、戴熙は池に身を投げ自殺をしたと伝えられています。
山水画に優れていたことでも知られており、康煕帝にも仕えた画家王翬に学び、花卉画や山水画などの作品を多く描きました。荘厳な雰囲気を感じさせる作品は、同時代の画家、湯貽汾と共に名を馳せ、並んで『戴・湯』と称されています。
作品には『山水長巻』などのほか『画絮』などの著作も残しています。