18世紀中頃から19世紀初頭に詩人や書画家として活躍しました。四川省の出身で号は船山と称していましたが、そのほかに自身の面立ちが猿に似ていたことから蜀山老猿とも称しています。26歳の時に科挙に及第し、その後知事を勤めるなど要職を歴任しましたが、40代後半で上司との不和を原因に退官しました。
退官後は隠遁生活を送りながら詩や書画に励み、特に詩においては優れた才能を発揮しています。著書の詩集『船山詩草』は明治時代前後に日本でも多くの人に読まれていました。
また、書においては行書や草書をよく書いており、力強くも奔放な書体で知られています。