16世紀中頃から17世紀前半に活躍した書画家です。上海市の出身で、号は麋公、あるいは眉公と称していました。書は若い頃から北宋時代の書家である米芾や蘇軾の作品から学び、また陳継儒と同時代の文人書家、董其昌とは親友であったと伝えられています。
30歳になる前にすでに隠逸しており、それ以降は文筆を活かし、書物の執筆をしていました。陳継儒の文才は同時代の学者王世貞も賞賛しており、隠逸している間、何度も宮廷から仕官を招かれましたが最後までそれに応じることは無く、書物の出版で生計を立てていたと言われています。
書画においても優れた才能を発揮していますが自身では余技としており、山水画や墨竹画を多く描きました。