16世紀末から18世紀中頃にかけて、書画家として活躍しました。江蘇省の出身で、号は板橋と称しています。幼少期は貧困した生活を送っていましたが、江蘇省の揚州にて書画を売りながら科挙の勉強を続け、39歳のときに及第しました。約10年後には知事となりましたが、60歳のときに自身が知事を務めた土地で飢饉が起こり、人民の救済に奔走したところ、大官の恨みをかい解雇されてしまったといいます。
仕官したあとも鄭燮の書画や詩は人気があったため、解雇された後も自身の作品を売って生活し、同時代に活躍した書画家の金農や、画家の李鱓と親交を深めながら余生を楽しみました。
詩・書・画の三種のすべてに優れており、画は蘭や竹をよく描きました。また書は漢時代、魏時代の碑や、北宋時代の書家・黄庭堅の作品から学んだと言います。楷書に隷書を織り交ぜた独自の書式を確立し、3分の2が隷書、のこりが楷書、という意味から『六文半書』と自身で命名しました。