17世紀に活躍した僧侶です。福建省の出身で、書にも優れていました。10代半ばで入門してから18歳の時には出家し、約10年後に臨済宗天童派の僧侶・費隠通容の元に仕えています。その後も多くの地を遍歴し、37歳の頃には黄檗山に訪れ隠元隆琦の説法を受けるなどしました。
44歳の時には日本にいた隠元に招かれて木庵性瑫も来日し、長崎県の黄檗宗の寺院・福済寺で勤めています。その後大阪府の普門寺、京都府の萬福寺などを回り、53歳で隠元隆琦の席を継ぎました。翌年には当時の将軍・徳川家綱に拝顔し、その後10以上の寺院の創設に尽力するなどしています。そして58歳のとき、将軍から紫衣の着用を許されました。
書においては中国ならではの特徴が強く、即非如一や隠元隆琦と並び『黄檗三筆』と称賛されています。