19世紀半ばから20世紀半ばにかけて考古学者として活躍しました。浙江省の出身で、号は貞松老人や雪堂と称しています。25歳のときに考古学者の劉鶚と出会い、劉の所蔵していた甲骨文字の拓本を見たことをきっかけに、その研究に没頭して行きました。やがて30代になると農学の研究と改良もはじめ、農学社や東文学社を創設しています。その後も大学の農科監督に任命されるなどしましたが、45歳のときには辛亥革命の影響で日本に亡命しました。この間に羅振玉は内藤湖南など日本の学者たちと親交を持ち、考古学の知識をより深めています。
やがて53歳で帰国してからは皇帝の師傳としてその教育にあたったほか、満州国の建国後に参議府参議などいくつかの要職を務め、宣統帝を支えました。
また、考古学者として甲骨文字を研究した以外にも、敦煌学(とんこうがく)と呼ばれる、中国の洞窟で発見された文献を基とする学問や、古器物、金石書画の分野でも広く名が知られていたと言います。歴史書の保存や扱いには特に力を入れていたようで、当時紫禁城に納められていた行政文書が処分されそうになっているところを自身の財を投じて買い取ったという話は特に有名です。