17世紀半ばから18世紀初頭にかけて、明の遺民作家として活躍しました。広西チワン族自治区の出身で、号は苦瓜や大滌子、阿長、清湘陳人など多くを称したほか、僧名の「道済」の名でも知られています。明時代の初代皇帝である朱元璋の兄が、石濤の父・朱亨嘉の祖父にあたるため、石濤は王家の末裔として生まれました。
幼少期、明朝廷の崩落の反乱の中で父を失った石濤は湖北省に移り、明の追っ手や清軍から逃れるために出家しています。その間には古典や書を学びながら古法帖の模写に打ち込み、中国古代の書の中でも特に顔真卿の作品に強い影響を受けました。また絵においては花鳥画や山水画、また人物画の画法についても学んでいます。
その後は中国各地を周遊し、僧としていくつかの山を移りながら作品の制作を行い、39歳のときにはパトロンも得ました。翌年からは北京に定住し、禅僧としての生活を辞め、画家としての活動を本格化しています。晩年は腕を痛めても制作を続け、揚州にて文人たちと交流しながら生活を送りました。
多くの作品のほかに、『石濤画譜』や『苦瓜和尚画語録』などの著書も残しています。