19世紀に外交官、または書家として活躍しました。広東省の出身で、号は子峩と称しています。
30代で科挙を通過し、詔書の起草などを司る翰林院に仕え、1877年より初代の駐日公使として東京に来日しました。その後約3年間、琉球処分や不平等条約の解消、朝鮮問題等の対応にあたっています。文人としても名高く、日本人の文人墨客の訪問も多く受けていました。
中国に帰国した後は福州船政大臣として従事していましたが、清仏戦争で福建海軍が全滅したことを受け退官しています。その後は広東省と広西省の総督の招きを受け、韓山書院で講師を務めました。