17世紀に臨済宗の僧侶として活躍しました。福建省の出身で、18歳の頃に出家したと言われています。41歳の時に同じく黄檗宗の、開祖である隠元隆琦に招かれ長崎に来日しました。その後は長崎の崇福寺や京都の萬福寺で僧として活躍しましたが、1年後、帰国しようとした際に福岡藩主に招かれ、福岡の福聚寺を開山しています。
そのほか書画にも才能を発揮しており、特に書においては、同じく僧の木庵性瑫や隠元隆琦と並んで黄檗の三筆の一人に挙げられています。
また、当時即非如一の描いた羅漢や観音などの画は日本における文人画の先駆けとなったと言われています。