19世紀に書家や篆刻家として活躍しました。江蘇省の出身で号は譲翁や言菴、晩学居士、方竹丈人などと名乗っています。また、53歳の頃より字を譲之としました。
幼い頃は貧しい環境で育ち、早くから科挙試験の受験を諦めていましたが、印を好み10代の頃から漢印の模刻を続けていたと言われています。やがて呉熙載が20代の頃には、人相見をしていた父の客として訪れた包世臣に、清時代の最も優れた篆刻家とも言われる鄧石如の作品を見せられ感銘を受けました。
その後は篆刻家でもあった包世臣に約30年の間師事し、篆刻と書において才能を発揮しています。碑帖(ひじょう)の模刻をよくし、その作品の中でも硯の収集家であった高鳳翰の著『硯史』を彫ったのは有名です。
絵も花卉画をよく描きましたが、戦乱で泰州に移住をした後も、晩年まで同時代に生きた篆刻家たちとの交流は続きました。