19世紀半ばから20世紀初頭にかけて活躍した書家です。安徽省の出身で、号は磊盦などと称していました。地方の学校から都へ推薦された抜貢生として官職に従事し、江蘇省で地方行政の長官となっています。また日本や欧州などの諸外国に訪れたことで、のちに収蔵家として著名であった端方に迎えられ、その所蔵品の鑑定を任されました。その腕前は同じく端方のもとにいた王瓘と並んで、「桐城両金石家」と称されています。
その後辛亥革命が勃発すると上海へと移り、芸術界では呉昌碩や汪洵、高邕と共に「上海四大家」として君臨しました。
書においては特に隷書を得意としており、漢碑に影響をうけたと思われる書風が特徴的です。