19世紀中頃から20世紀前半に政治家、または教育家として活躍しました。江蘇省の出身で、号は嗇庵と称しています。40代の頃に科挙試験で一番の成績を取り、皇帝の発する公文書の起草などに携わりました。やがて政治家の張之洞の指導のもと実業家として活動し、紡績工場の建設や近代的な師範学校、さらには民間博物館の創設などに関わっています。この内、近代的師範学校と民間博物館の創設は中国初のものであったとされており、中国の近代化に大きく貢献した先駆者の一人としても知られました。
50歳のときには、日本の博物館や教育機関の視察をしに来日しており、20箇所以上の学校を訪問しています。また、59歳の時には中華民国の臨時政府実業総長、その後も農林総長や工商総長、全国水利局総裁などを歴任し、政治的にも活躍しました。