15世紀後半から16世紀半ばに活躍した文人です。江蘇省の出身で、号は停雲生や衡山、衡山居士または文衡山などの名でも多く呼ばれていました。文徴明は南宋時代の文人・文天祥の子孫にあたる名家の出身であり、父も浙江省の知事を務めていたと言われています。
幼少の頃は発育が悪いとみなされていたようですが、父が熱心に教育に勤しみ、やがてその友人らに師事しています。古文においては優秀な官吏でもあった呉寛に、書画においては文人画の一派・呉派を興した書画家として知られる沈周や李応禎に学ぶなど、当時の名高い人物たちからその技法を学びました。
一方で科挙には50歳になるころまで挑戦し続けましたが終に受かることはなかったと言われています。しかし、50代半ばの頃にはその芸術的な手腕から翰林院に推薦され実録の編修に携わりました。約2年で宮仕えはやめてしまったものの、その後は隠逸生活を送りながら蘇州における芸術界の重鎮として、晩年まで多くの文人たちとの交流を楽しみました。