17世紀に書画家として活躍しました。安徽省の出身で、号は梅壑や後乙卯生などと称しています。明時代に科挙の試験資格を得、諸生となりましたが、明の滅亡後は仕官することをやめ書画に専念しました。
生家が豊かだったこともあり、ものぐさな性格であったと言われ、しかし書画を制作する際は必ず深夜に行ったと言われています。
絵においては元時代の画家倪瓉(げいさん)をよく学び、後に呉鎮の筆法も交えながら自身の技を磨きました。同郷の汪無端や孫逸、弘仁と共に「新安四家」や「海陽四家」と称されています。また、書は北宋の書家米芾(べいふつ)や明末の書家董其昌の作品に心酔し、その技を学びました。