19世紀前半から20世紀初頭にかけて学者として活躍しました。湖北省の出身で、号は隣蘇老人や鄰蘇と称しています。商人の家に生まれ、23歳のときに科挙の受験資格を得ており、一時はその博学さを活かし教壇に立ちました。その後科挙に及第することは叶いませんでしたが、公使館員として日本に訪れ、日本国内では逸書となっていた中国古書を収集したと言われています。また来日中には、書家の日下部鳴鶴や巌谷一六などと交流し中国北魏の書を教えたことで、日本の書道界にも影響をもたらしました。
中国に帰国したのちは勤成学堂にて総教長に従事し、晩年は上海に転居して自身の作品を売って生活したと言われています。そのほか、日本のみならず中国でも金石学の研究に打ち込み、従来の書を改新するなど、大きな功績を残しました。