17世紀前半から18世紀前半にかけて活躍しました。浙江省の出身で、号は西河や初晴と称しています。幼い頃から利巧で若いうちに諸生となりましたが、やがて殺人の罪から逃亡生活を余儀なくされ、名を変えて流浪した時期もあったといいます。その後書院からの招致を受けその知識を後進の指導に活かし、56歳のときには明史の編修作業に選挙されました。
幅広い分野で才能を発揮しており、詩文や書画、地理や楽律、音韻、史学などに通じています。中でも経学においては他人の説に反論するなど攻撃的な姿勢もありました。
94歳のときに息を引き取りましたが、晩年は弟子を多くとり、学者の李塨はその内の一人として挙げられます。