主に18世紀後半に活躍した、学者または文学者です。江蘇省の出身で、号は北江と称しています。44歳の時に科挙試験に及第し、翰林院や貴州学政などに従事しました。いくつかの役職を歴任したのち北京に戻りましたが、皇帝への文言が問題となり地方へ流刑となっています。
赦免されてからは故郷で著書の制作活動を行ったと共に、金石学や文字学、詩文などにも勤しみました。
中でも詩文においては清時代の著名な学者、孫星衍と並称されるなど特に才能を発揮しています。書では細身の線で特徴的な文字の「玉筯篆(ぎょくちょてん)」を多く残しました。