16世紀前半に活躍した画家で、号は雅宜山人と称していました。江蘇省の出身で、科挙試験に度々挑戦しましたが、通過することは出来なかったと言われています。
しかし、詩、画家、書家、さらには篆刻の才能に非常に優れており、篆刻においては同時代の篆刻家、文彭(ぶんぽう)と並んで称されました。
書においては初唐時代の書家虞世南(ぐせいなん)や、東晋時代の書家王献之(おうけんし)を模範として学び名声をあげ、絵画では黄公望や倪瓚などの画法を研究して山水画を多く残し、文人書家の文徴明のあとは第一と言われました。