19世紀後半に活躍した学者です。山東省の出身で、号は廉正と称していました。35歳の時に科挙試験に合格し、いくつかの官職を経たのちに国子監の長官(国立大学の学長にあたる)を務めています。その後50代半ばの頃には義和団の乱が勃発し、住民による自衛集団の団連大臣を兼任しましたが、八ヵ国連合軍が北京に侵入したことを受け、自ら命を絶ちました。
金石書画においては青年時代から収集を続けており、北京で仕官したのちには呉大澂や張之洞などの著名な収集家と親交を深めたことで王懿栄もその名を広めています。そのほか、当時小説家としても知られていた劉鶚と共に甲骨文字の発見者としてもよく知られています。