18世紀に書画家として活躍しました。江蘇省の出身で、号は夢楼と称しています。40歳の頃に科挙に合格し雲南省の知府となりましたが、官僚としての生活に嫌気が指し、後年は揚州の梅花書院などで風雅な生活を送りました。
書においては草書や行書、楷書に優れた能書家で、琉球王国への使節団に同行した際には琉球人からもその書が珍重されたと言われています。中国国内では乾隆帝に気に入られ、王文治が退官した後も、彼に再度仕官を勧めました。
しかし、王文治はそれを断り庶民として生活することを選んでいます。晩年には禅を信仰し、その生涯で「淡墨」を用いた力強い書の作品や、それ以外にも菊や梅、竹石を清雅に描いた画を制作しました。