生没年は不詳とされていますが、清時代に画家として活躍しました。浙江省の出身で、号は秋雪や晩山と称しています。科挙試験の受験資格は得ていましたが、本試験に及第することはなかったと言われ、その代わりに画業に励みました。胡湄は明時代の後期に書画作品の収蔵家として知られた項元汴が祖父にあたり、その所蔵品の模写を好きに行うことができたためその腕が磨かれていったと言われています。作品は花鳥や虫魚を主題としたものが多く、多大な報酬を提示されても、自らが認めた者にしか作品を渡すことはありませんでした。
そのほか、詩文においてはその名声が日本にも及ぶほどだったといいます。これを受け当時の徳川幕府は胡湄を日本へ招こうとしましたが、その時には胡湄がすでに亡くなっていたため、代理として胡湄に師事していた画家の沈南蘋が来日し、約2年間滞在しました。