14世紀後半から15世紀初頭にかけて活躍した書家です。江西省の出身で、号は文水や春雨と称していました。20歳の若さで科挙試験に及第した秀才で、早い時期から帝に認められ宮廷に仕えています。以降、代々の皇帝に重用され、中国でも最大といわれる22,877巻にも及ぶ類書『永楽大典』の編纂なども行いました。しかし、やがて漢王朱高煦と揉め、左遷されたのちに投獄され一生を終えています。
書においては様々な書体に優れ、『春雨雑述』などの所論を残すほどでした。その書は元時代に活躍し広く名が知られた書画家、趙孟頫の作品の市価を下げさせたともいわれています。