生没年は明らかになっていませんが、清時代に活躍した画家あるいは商人です。浙江省の出身で、号は晴湖や耕霞使者と称していました。標準的な背丈でしたが剛健な体格をしていたと伝えられています。父は現在の長崎県に住んでおり、費晴湖自身は18世紀後半に来日ました。やがて父が海で遭難して亡くなった際には長崎奉行所から父の遺骨を引き取り、中国に持ち帰ったと言われています。
費晴湖は長崎に滞在する間、江戸時代中期に活躍した日本の文人画家・春木南湖や同じく南画家の十時梅厓に、南宗画様式の画技および書法を伝えました。また、明治時代の女流画人である奥原晴湖は、この費晴湖を強く尊敬しており、自身の名前にその名を取り入れています。
一方、費晴湖自身は北宋時代に活躍した文人画家の米芾や、明時代末頃に活躍した文人画家の董其昌の作品を模範として学び、自身の画法を確立しました。