19世紀後半から20世紀中頃まで中国近代の画家として活躍し、書も得意としました。江蘇省蘇州出身で、号は雲壑や鉄漢、後年になり禿翁や壑叟と称しています。
近代中国芸術で重要な地位を築いた呉昌碩(ごしょうせき)の高弟であった雲壑は、花卉画を得意とし、書画や篆刻にもその才能を発揮しました。画、書、詩、篆刻の全てに長けていて「四絶」と評価された呉昌碩の下で芸術精神や技能を磨き、1920年には『呉昌碩・趙雲壑合冊(がっさつ)』が刊行され、1922年には『雲壑子余墨(うんがくしよぼく)』が刊行されて、その実力は確固なものとなりました。呉昌碩の代筆も務めた雲壑の作品は、呉昌碩の作品と見間違うほど似通っているものもあります。
故郷の蘇州に63才で帰ったのち、82歳でその生涯をまっとうしました。