20世紀に画家として活躍しました。広東省の出身で、広州市立師範学校にて絵画を学ぶと、23歳の頃、画家高剣父の春睡画院でさらに技術を高めています。
その後、広東省で当時活動した画家たちを指す『嶺南画派』の画家として活躍しました。
1930年代後半からは美術展覧会に参加し、やがて国内外含め多くの場所で個展を開催するまでとなります。1940年代には広州市芸術専門学校の中国画科主任と教授に任命されました。同時期のアジア圏の旅行中には風景や少数民族地区を写生しており、旅行中の写生画を集めた画集の出版もしています。
晩年まで関山月の創作活動は続き、多数の美術学院の教授や院長を歴任しました。