19世紀に画家または教育家として活躍しました。広東省の出身で、号は天風楼と称しています。
兄には新文人画の第一人者とも言われる高剣父、弟にも同じく画家の高剣僧を持ち、兄弟で「嶺南画派」の中核を担いました。この「嶺南」とは嶺南山脈の南に位置する地方の事で、この土地で活躍した画家たちを「嶺南画派」と呼んでいます。
高奇峰は幼い頃から兄である剣父に絵を学んでおり、17歳の頃には剣父に従って東京に来日し、日本で絵画を学びました。帰国後は図画教員を務め、やがて23歳の頃には上海にて剣父と共に審美書館の運営や、『真相画報』の出版に従事しました。
その後も嶺南大学の名誉教授や美術館の創設などに尽力すると共に、自身の創作活動も続け、西洋画の色彩表現の技法を取り入れた独自の中国画の画風を確立しています。