17世紀に活躍した文人、または書画家です。江蘇省の出身で、号は半畝や清涼山下人、柴丈人などのほか、半山、柴公など非常に多くの号を名乗っていました。早いうちから金陵(南京の古称)に移住し、明が滅びた後はその遺民のみと交流したと言われています。50歳のときには清涼山のふもとに半畝園を結んで隠居し、晩年まで自身の作品を売るなどして生活しました。
当初売画によって生計を立てることは難しく、貧しい生活を送っていた龔賢でしたが、作品は伝統的な画法とは異なる確固たる画風と、哀愁の漂う山水画などを得意とし、だんだんと独創的な作家として名を馳せて行きました。このことから、清時代初めに金陵に在住した画家たち、樊圻や故慥・高岑・葉欣・鄒喆・呉宏・謝蓀と並び、『金陵八家』と称されています。
そのほか書においては行書を得意としましたが、資料として残っているものには絵の落款や批評が多く、純粋に書のみの作品は少ないようです。