16世紀末から17世紀後半にかけて活躍した禅僧です。20代半ばの頃に父を亡くしたことをきっかけに医術と儒学を学び始め、終には明王朝に仕官しました。しかし政治の混乱を嫌い、医術で生計を立てながら隠遁生活送り、時代が清へと移り変わるころには日本に渡来しています。やがて、同じく中国から渡ってきた禅僧・隠元隆琦のいた長崎県の興福寺にて出家し、『独立性易』と名乗り始めました。
医術だけでなく書画や詩の才能にも優れていた独立性易は、隠元隆琦に付き徳川家綱に謁見した際にその作品が高く評価されています。体調不良で長崎に戻った後も書や篆刻作品を多く制作し、その際に明時代の新たな篆刻技法や印法を日本に伝えました。また、60代後半の頃からは偉業に専念し、各地を回りながら貧民もそうでない者も差別せずに施術してまわったと言われています。