明治中期に生まれ、昭和前期にかけて、日本画家として活躍しました。
“御舟”は号のひとつで、このほかに“浩然”や“禾湖”などの号でも活動しています。
速水御舟の歴史
1894年に東京で質屋を営む蒔田家に生まれました。名前は栄一といい、幼い頃から絵に興味を持っていたと言われています。14歳で学校を卒業すると、家の近くに住んでいた日本画家の執事から推薦され、その主であった松本楓湖の開く画塾に入門。中国古代の作品や大和絵、琳派などの作品を模写して学んだほか、同じ画塾の仲間たちと団栗会という会をつくり、会員たちで近隣を周り写生会を行うなどしました。その後15歳になると師である速水御舟から“禾湖”の号をもらい受け、また同時に蒔田の姓を母方から引継いでいます。こうしてそれから約3年間は蒔田禾湖と号して展覧会への出品も行いました。この間1911年には巽画会展で出品作が1等となり、同作品を宮内省が購入。また兄弟子である今村紫紅が所属していた、大和絵の研究団体・紅児会に加わった際には、紫紅からつよい影響を受けたと言われています。
やがて18歳頃になると号を浩然と改め、紅児会の解散後は院展(再興日本美術院展)で活動していきました。1913年には美術家でコレクターとしても知られる原富太郎に作品が買い上げられ、これをきっかけに原富太郎は浩然の支援者となっていきます。
翌年には父方の姓にかえり、また号も御舟とし、“速水御舟”となると、美術団体の赤曜会の設立に携わり、約2年間活動。以降は院展などを中心に作品を出品していき、まもなく、当時の画壇で活躍していた横山大観や下村観山などの芸術家たちからも注目をあつめるようになりました。
25歳の時には足を切断しなくてはならない怪我を負いますが、これに負けることなく、1920年代はさらに活躍の幅を広めていきます。その後岸田劉生の洋画から影響を受けて変化した画風はより写実性を増し、1925年の夏に別荘で描き上げたとされる作品『炎舞』は、速水御舟の代表的な作品となりました。また30代半ばの頃にはイタリア政府が主催した、ローマで行われる日本美術展覧会の使節団として横浜大観らとヨーロッパを訪れ、各地をまわっています。同会には渡欧前に院展で発表した作品を出品し、イタリアからオクイシェー・クーロンヌ勲章を受章。さらに2年後にはドイツにて日本現代画展が企画され、同展に並んだ作品群は大変好評であったためそのままベルリンの美術館に贈られました。これがきっかけとなり、ドイツからは赤十字二等名誉勲章を受けています。
日本に戻ったのちも継続して制作活動を行い、高い写実性を残しながらも琳派の装飾的な表現が融合された新しい画風は、以降も注目を集め続けていきました。そして1935年、40歳の若さで息を引き取っています。