明治時代中頃に生まれ、昭和前期にかけて活躍しました。
日本画家として知られていますが、西洋絵画の研究や、自ら制作も経験し、伝統的な日本画の表現の中に西洋絵画から得た構図や模様を盛り込んでいます。
土田麦僊の歴史
1887年に新潟県の農家の家に生まれた土田麦僊は、10代の頃から絵に興味を持ち、近代日本画の代表的人物と言われている竹内栖鳳のもとで学び始めます。入門してから2年後には新古美術品展で上位3位に入賞、また文展においても3等賞を受賞するなど早い段階で才能を表しました。その後通い始めた京都市にある絵画専門学校在学中にも入選を繰り返し、25歳頃に同校を卒業。そして同年から文展に出品した作品は2年連続で褒状を獲得しています。
この頃から土田麦僊は作品の表現において日本の伝統だけに固執せず、西洋絵画の表現も取り入れていきました。前衛絵画運動にも参加し、1918年には学生時代の仲間たちと共に「新たな日本画の創造」を理念に掲げた国画会を結成。これまでの伝統に重きを置いた日本画ではなく、西洋芸術との融合を目指した美術団体として、以降約10年にわたり、同展で活動していきます。この間に土田麦僊は西洋画家のルノワール、ゴーギャン、セザンヌなどの作品に強い影響を受け、1921年には自らヨーロッパに訪れ彼らの作品を収集・研究したほか、制作も行いました。約1年半の滞在後は、帝展を主な発表の場としたほか、同展の審査員も務めています。また帰国してまもない頃にはフランスからレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ章を受けるなど、国内外でその名を広めることとなりました。
晩年まで積極的な制作活動を行い、1936年、50歳の若さで息を引き取っています。
ポール・セザンヌ
19世紀初めから、20世紀の初頭にかけて活躍したフランス人画家です。ポスト印象派の代表的な画家のひとりで、“近代絵画の父”とも称されていたセザンヌは、1839年に銀行家をしていた父の家庭に生まれました。その後成長すると親からの期待もあり、はじめは法学部で学んでいましたが、中学生時代から親交のあった、のちに小説家として名を馳せるエミール・ゾラに勧められたことがきっかけとなり、セザンヌは絵を学んでいきます。
そして1861年、絵の本格的な指導を受ける為にパリを訪れると、美術学校とルーヴル美術館に通う日々を送り始めました。熱心に取り組むセザンヌでしたが、一時は周囲とうまくいかず、故郷に帰ってしまいます。しかし翌年にはパリに戻り再び絵の勉強を開始。モネやルノワールと親交を深め、その他の画家仲間たちとともにサロンへの出品を繰り返しましたが、なかなか成果がでないまま、印象派展でも批判的な批評を多く受けました。
以降も経済的に困難な状況が続く中で、大きな反響はないながらも絵画の制作は続けていくと、徐々に前衛芸術に理解のある批評家たちのあいだで評判が高まっていきます。その時すでに50歳前後であったと言われており、個展やサロンに多くその作品が並ぶようになったのは最晩年でした。
晩年は野外制作で自然風景の写生を多く行い、1906年に亡くなったあとも、土田麦僊を含め、国内外の画家達に大きな影響を与えています。