和骨董大辞典

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村上華岳(むらかみかがく)

 

明治半ばに生まれ、昭和前期にかけて活躍しました。

華岳は号で、日本画家として有名ですが、その作品には村上華岳自身が研究した、浮世絵やインド、ヨーロッパからの影響が生かされていると言われています。

 

 

村上華岳の歴史

 

1888年に大阪で生まれましたが、家庭の事情で幼少期から兵庫の叔母の家で育ちました。名前は震一といい、神戸の小学校を卒業後は、京都にある美術工芸学校に進学。この在学中に震一は父を亡くし、生家である武田の家を継いでいますが、3年後には同家が絶えることが決定しています。そして以降は自身の育ての親であった叔母夫婦の家にはいり、その姓である村上を名乗っていきました。

学生生活ではその後、21歳の頃に美術工芸学校から京都市立絵画専門学校に進学し、同時期に文展に自身の作品の出品を開始。初回から上位に入賞し、1911年には絵画専門学校で制作した卒業制作品を文展に出品すると、褒状を得ています。20代半ばで同校の研究科を出たのちもその才能を存分に発揮しており、20代後半の頃には初めて出品した仏画が特選に選ばれました。

 

しかし、日本の伝統に固執した文展の審査に徐々に嫌気がさしていき、学生時代の同志たちと集まり、国画創作協会を結成。ここには村上華岳のほかに小野竹喬や土田麦僊などの日本画家達が集っており、従来の日本画に対して、東洋と西洋の芸術を取り込んだ新たな日本画を作り上げることを目的として活動していきます。1918年の結成以降は、村上華岳もこの国画会展を中心に作品を出品し、多くの代表作を発表。30代中頃には同会の仲間たちが絵画の研究の為ヨーロッパへ訪問するなかで、体調の悪化を理由に自身は渡欧を辞退していますが、翌年にはフランスで行われた日本美術展に出品するなど国内外での活躍もみせました。

 

その後は持病がなかなか改善されなかったこともあり、画壇からはだんだんと距離をおいていきます。国画会への出品も1926年を最後としており、翌年には神戸へ転居。公の場からほとんど姿を消してしまいますが、作品の制作は継続していました。それから間もなく、国画創作協会も経済的な事情から解散を余儀なくされ、村上華岳自身も自宅からほぼ動くことなく比較的扱いやすい大きさの作品の制作をしていたと言われています。

晩年まで画業を猛進し、1939年、52歳の若さで息を引き取りました。

 

 

 

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