和骨董大辞典

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小林古径(こばやしこけい)

 

明治前半に生まれ、昭和半ばにかけて活躍した日本画家です。

絵画の修行を始めてから間もなくその才能を発揮し、日本の歴史画や古典画の研究も熱心に行い、晩年まで積極的に作品を制作しました。

 

 

小林古径の歴史

 

1883年、新潟の高田藩士の元に生まれ、幼少期は茂と名付けられました。5歳に満たない頃に母を失いますが、その後新潟の学校に通い、その時教壇に立っていた東京美術学校の第1期卒業生・山田於莵三郎に日本画を学びます。これをきっかけに美術に興味を持ち、翌年12歳の時には洋画家の青木香葩(香葩は号で、青木繁の名でも知られています。)にも指導を受けました。同年に初めての号である“秋香”の名が師から贈られますが、一方で今度は兄と父を相次いで失います。若くして孤独になりますが、より一層日本画の修行に打ち込み、1899年には上京して梶田半古の画塾に入門。ここで“古径”の号を授かり、大和絵、および歴史風俗画を中心に学んでいきました。

 

こうして上京した翌年には、共進会の展覧会に出品した作品が一等褒状と三等褒状を得たほか、翌年、翌々年も一等褒状を獲得し、その才能を存分に発揮していきます。こうして東京の画壇でもその名を広めると、20代半ばの頃には梶田半古に勧められて塾頭を務め、1910年には岡倉天心と親交のあった日本画家の安田靫彦らに誘いを受けたことで、日本画の研究・美術団体である紅児会に参加。同会に所属していた、当時の日本画家達を先導する若手画家たちに刺激を受けながら小林古径自身も古典画の伝統と技法や歴史風俗画の見方に関して研究を深めていきます。この間には岡倉天心とも親交をもち、約3年後に紅児会は解散してしまいますが、1914年からは日本美術院に参加するようになりました。

 

やがて39歳の時には日本美術院からの留学生という立場でイギリスを訪問する機会に恵まれ、現地の博物館で中国の古典画の模写を行っています。繊細な筆跡の東洋芸術品に感銘を受けた小林古径は、帰国後、院展をはじめとする展覧会で作品を発表しながら、写実性の高い、独自の画風を確立。1935年には帝国美術院の会員となり、60代となった頃には、東京美術学校の教授として後進の指導に努めました。また、同年帝室技芸員としても認められています。さらに、戦後1950年、67歳の時には文化勲章、翌年には文化功労者となり、日本画家としての地位を確立しました。

 

そして翌年の院展への出品を最後に、1957年、74歳で息を引き取っています。

 

 

 

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