明治半ばに生まれ、昭和末ごろにかけて活躍した日本画家です。
日本画の近代化に貢献した当時の画家達の中でも、特に後年まで日本画壇を先導し、文化勲章受章者となりました。
小野竹喬の歴史
1889年に岡山県の商人の家に生まれました。名前は英吉といい、小学校卒業後は家を手伝っていましたが、俳優か画家になりたいと考えていた兄の影響で画家を志し、10代中頃に京都の絵師・竹内栖鳳に弟子入りしています。師の描く、日本画に西洋絵画の要素、特にカミーユ・コローなどの作品からヒントを得た目新しい画風の作品に感銘を受けた小野竹喬は、自身も少しずつ西洋絵画や南画などの、国外の芸術作品も学んでいくこととなりました。
その後16歳になると師から“竹喬”の号を贈られ、同年日本美術協会展に出品した作品が入選。以降も新古美術品展や文展に出品を重ねていきます。また修行も怠らず、この間1909年には京都の絵画専門学校に入学し、在学中は、展覧会への出品作に新聞で称賛をおくった、美術史家の田中喜作などと親交を深めました。
2年後に同校を卒業すると、27歳で文展へ出品した作品が特選を受賞。以来数年は展覧会に参加するも思うような評価が得られずにいましたが、1921年から画家仲間たちと共に訪問した国外での経験が、小野竹喬の作品制作に大きな影響を与えます。香港やフランス、スペインなどアジア圏やヨーロッパの各地を訪問して戻った小野竹喬は、徐々に自身の作品に各地で目にしてきた作品表現を交えていき、帝展でそれを発表していきました。
50代になる頃にはその画風も定まり、当時文展に出品した作品は京都市美術館に購入されるなど高い評価を受けています。翌年には個展を成功させ、やがて各展の審査員や美術大学の教授、帝国芸術院の会員など要職を歴任するようになりました。作品制作も並行して行い、国立近代美術館の買い上げとなったり、日展など展覧会への出品、個展の開催など積極的に活動。これらの功績が評価され、1968年には文化功労者に。そして1976年、87歳の時には文化勲章を受章しています。
晩年は個展の開催などを中心に行い、1979年、89歳で息を引き取りました。
カミーユ・コロー
18世紀末に生まれ、19世紀に活躍したフランス人画家です。風景画を得意としていますが人物画も見事で、詩情豊かな代表作を多く生み出しました。
カミーユ・コローは1796年に裕福な商人の家に生まれています。そのため、絵に興味を持った息子が画家になることに当初父親は反対し、学校卒業後は商人として修業を開始。しかし諦めきれなかったコローは20代半ばの頃にようやく父に認められ、画家になる修行を始めました。
その後は風景画家たちのもとで修業を受けたほか、イタリアに訪れ屋外での制作活動を多く行っています。もちろんフランス各地でも同様に写生を行い、各地を描いた作品は積極的にサロンに出品していきました。やがて50代の頃には自らが審査員を任されるまでとなり、1855年のパリ万博にも作品を複数出品。グランプリを獲得するなどして、その名を広めていきます。
晩年まで熱心に制作活動を行い、フランスの代表的な画家として認められるようになりましたが、1875年、78歳で息を引き取りました。