明治半ばの頃に生まれ、昭和後期にかけて活躍した画家です。
日本画家として活動し始めますが、後年には版画家として木版画の制作も行っています。特に美人画を得意としていました。
伊藤深水の歴史
1898年、伊藤深水は東京で生まれ、木材問屋を営む家で育ちました。その後地元の小学校に入学していますが、家の経営が傾いたため3年次に中退。10代になったばかりという年頃でしたが、当初は看板屋で、また翌年には印刷会社で職工となり家計を支えていきます。しかし一方で絵に興味を持ち、日本画家の中山秋湖に学び始めたのもこの時期でした。約3年後には美人画家として有名であった鏑木清方に弟子入りして“深水”の号を授かり、また夜間学校に通学して中等科卒業までの課程を修了させています。この間には生活が切迫し、昼に勤務し夜に通学、そのあとの時間に制作活動を行うという過酷な日々を送ったと言われていますが、修行に真剣に向き合い、翌年には巽画会への出品作で初入選となりました。
こうして日本画壇に名を知られるようになった伊藤深水は、さらに翌年、同展で一等褒状を獲得。10代半ばにして大きく才能を開花させると、務めていた印刷所を辞め画家としての活動に専念していきます。そしてそれから5~6年の間は、作品展への出品よりも新聞や雑誌の挿絵、特に木版画の研究や制作に没頭しました。
この木版画は、当時伝統的な技法に則った木版画の再興に努めていた渡辺庄三郎が、ある展覧会で伊東深水の作品を目にしたことがきっかけで制作を始めたもので、伊東深水はその制作作業の中でも絵師として木版画特有の表現に注目していたと言われています。18歳で初めての木版画作品を発表すると次第にその名を広めていき、また木版画の復興を唱える新版画運動にも加わりました。川瀬巴水らと共に情緒豊かな作品を次々と発表し、その運動の流れを形作ったほか、第一次世界大戦後も新版画の版画家としてしばらく活動しています。
やがて1919年に結婚したのちは、妻の好子をモデルとした作品『指』を描き、博覧会で2等銀牌を受賞。それからは好子を元に描く、生活の中にある美しく雰囲気のある一幕を主題に、美人画を多く発表していき、美人画を得意とした画家のひとりとして後年にも名を残す作品を仕上げていきました。
昭和に入ると画塾を開校したほか、帝展への出品作が特選、無鑑査認定、特選首席、と連続して毎年高い評価を受けていき、1932年からの2年間は、帝展の審査員を務めています。30代後半には個展を開催。創作意欲は第二次世界大戦時にも続き、展覧会への出品を継続したほか派遣された先で4,000にも及ぶ素描を描きました。また戦時中には肖像画の発展を願った美術団体、青衿会を発足させています。
戦後、一時は疎開し関東から離れますが、間もなく戻り、以降伊藤深水は日展を中心に活躍していきました。1947年には発表作品が日本芸術院賞を受賞し、日本画家の児玉希望による画塾と青衿会を合併すると、後進の指導に尽力します。その後も晩年まで個展の開催や展覧会への出品を継続的に続け、1972年、74歳で息を引き取りました。
児玉希望(こだまきぼう)
伊藤深水とほぼ同時期に生きた、明治から昭和の日本画家です。彩色された鮮やかな作品群も人気ですが、特に水墨画には見事な作品が多いと言われています。
1898年に広島で生まれた児玉希望は、若い頃から浮世絵師の尾竹竹坡に絵を学び、10代の頃には非常に写実的な作品を描いていました。その後上京すると、20歳で、のちに文化勲章受章者となった川合玉堂のもとに入門。腕を磨きながら、この頃にはすでに尾竹竹坡に授けられた号である、“希望”の名で作品を制作していきます。そして師事してからわずか3年で、初めて帝展に出品した作品が初入選となり、日本画壇で話題を集めることとなりました。
以降も数々の展覧会に出品を重ね、その名を広めていきましたが、時には西洋画にも触れ作品と技法を学び、自身の日本画に取り入れるなど、伝統に固執しすぎない柔軟な姿勢で作品を描いていきます。こうして30歳の時の帝展出品作で特選を獲得し、自身の地位も確立しました。やがて50代になると日展の運営や評議員などの要職も務めたほか、自身の画塾と伊藤深水らの美術団体を合わせ日月社を発足するなど、美術の振興にも尽力。作品制作も絶えず行い、日本芸術院賞も獲得したのち、昭和30年代初め頃にはヨーロッパへ訪れています。ここで改めて西洋美術作品を観察したのち、帰国後は水墨画の制作に打ち込み、晩年は各地で展覧会を開催しました。この間日本芸術院会員にもなり、1970年、72歳の時に勲三等旭日中綬章を受章。そして翌年、息を引き取っています。