和骨董大辞典

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朝倉南陵(あさくらなんりょう)

 

江戸後期、宝暦の時代に生まれ、絵師として活躍した人物です。

御用絵師の4代目の当主を務め、歴代の中でも山水画、花鳥画、そして人物画と幅広い分野を得意としました。

 

 

朝倉南陵の歴史

 

朝倉南陵は1757年、山口県の徳山藩の浪人の子として生まれました。幼少期は喜代槌と名づけられたようですが、のちには銀之丞、という通称で呼ばれていきます。幼いころに祖父が亡くなり、わずか6歳で家を継ぐこととなりますが、まもなく10歳の頃、親族であり、御用絵師を代々務めていた朝倉家に婿入り。これが絵師となるきっかけになりました。

 

朝倉家の息子となった喜代槌は、その後10代半ば頃から、画家の雲谷等徴・等竺親子から絵の指導を受けていきます。技術的な基礎を学ぶと、約2年後には号を与えられ、当初は師の名前からあやかり「等」の字が入った「等遠」や「等佳」の号を称していました。そして20代はじめ頃には萩藩(長州藩)から指名を得るほどとなっています。

また同時期に自身の名を喜代槌から湖内と改名し、以降も画家として生活を送りますが、30歳となった年により腕を磨くため、上京。江戸ではこれまでと異なる派閥の画家の岩井江雲から漢画を学び新たな技法を身に着けると共に、号は江雪と名乗っていきました。約3年間の修行を終えたのちは、故郷に戻り、ふたたび雲谷等竺に師事していたようです。

 

 

やがて1791年、30代半ばの頃からは少しずつ大きな依頼を受注していくこととなります。藩の領内にある大判の絵画制作から、要人たちの肖像画、寺院へ納める作品のほか、当時すでに開始されていた伊能忠敬による日本地図の制作に触発されてか、領内の地図なども制作。またそれ以前に萩藩で絵図を制作していた測量人の有馬喜惣太による絵図を10冊以上模写するなど、非常に熱心な取り組みを見せました。

こういった功績から藩内でもその名を広めていき、間もなく御用絵師として就任。しばらくは藩主の肖像画の制作などに取り組んでいましたが、1806年、文化年間からは主に領内絵図の制作に打ち込んでいます。これは1800年の蝦夷地の計測から始まった、伊能忠敬の日本地図作成を受けたもので、1806年から10年に渡って、伊野忠敬が長州藩に訪れる間常に続いていたと言われています。この間に自身の名を南陵と改め、開始時にはすでに50歳をこえていましたが、測量中は画家としてよりも地図の制作に集中する日々を送り、藩主の城を中心とした各方面の風景の作画や、要所となる街道や林からの景色、地名の書き入れや修正の指示などに応じていきました。

伊能忠敬による長州での測量作業の進行は厳格であり、さらに同地では前述の有馬喜惣太など、忠敬以前に測量をした者たちがいたことで他藩より技術もあったため、非常に期間の短い中で行われたと言われています。このようにかなりの責務の役職ではありましたが、朝倉南陵は見事勤め上げ、たびたび藩主から金銀や、当時は持つことで名誉となった紋付などを贈られました。

 

 

その後70代半ばには隠居した朝倉南陵でしたが、隠居後も藩からの厚遇は続き、生涯にわたる銀の支給や、城への出入りの許可、晩年は杖をついての登城も許されるなど、非常に信頼を寄せられていたといいます。

一方で朝倉家の家督は三男である震陵に譲りますが、南陵自身、80歳をこえてもその腕は大変見事で、現在まで美術館に所蔵される作品などを多く仕上げました。そして1843年、80代後半で、息を引き取っています。

 

 

 

 

朝倉家とは

 

現在でいう山口県の一部を納めていた、徳山藩の御用絵師を務めた一族です。

この徳山藩は朝倉南陵が修行した萩藩(長州藩)の支藩で、萩藩から依頼を受けた朝倉南陵はいわばより大きな本家の藩からの指名であり、その才能が充分に認められていたことが伺えます。

 

■初代 朝倉繁経/等収(あさくらしげつね)

源氏に連なる人物であったと言われており、当初は表具師(描かれた絵を掛け軸や巻物、衝立や額に入れる表装の作業を専門に行う職人のこと。)を生業にしていたと言われています。

やがて戦国時代の武将・毛利元就に与えられた土地の名前から「朝倉」の姓を名乗るようになり、また徳山藩に仕えるようになってからは、雲谷派の絵師・等恕から学び、絵師となりました。号は等収と称し、長男に家督を譲っています。

 

■二代 朝倉友信/等月(あさくらとものぶ)

絵師・雲谷等全から指導を受け、等月という号を称していました。父である朝倉家初代・等収と手伝い2代目となりましたが、息子の不祥事のためこの代で朝倉家は一時的に途絶えています。

 

■三代 朝倉友明/等栄(あさくらともあき)

二代目の等月が亡くなったのちに、その長男である友明が家督を継ぎ(不祥事を起こしたのは次男であったと言われています)、雲谷等徴に教えを受けたことで朝倉家の三代目となりました。等栄の号を称し朝倉家を再興させた人物ですが、再興後まもなく息を引き取りました。

 

■四代 朝倉南陵

三代目が後継者を決める間もなく亡くなったため、朝倉家の親族間で婿入りというかたちで養子になりました。三代目までと同様に雲谷派の絵師から学んでいますが、そのほか円山派や漢画の指導も受け大成しています。

 

■五代 朝倉震陵(あさくらしんりょう)

南陵の三男にあたります。父である四代目から指導を受けたほか、雲谷等徴、また谷文晃のもとでも長年腕を磨きました。南陵と同じく幅広い分野の絵を得意としましたが、中でも山水画が特に評価されています。30代前半の頃に家督を継ぎ、藩に仕えていきますが、1871年の震陵の死によって、朝倉家は途絶えてしましました。作品は南陵に並びすぐれたものが多く、現代にも残されています。

 

 

 

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