江戸時代中期、正徳の時期に生まれ、画家として活躍しました。
最も知られている若冲の号の他にも、春教や米斗翁、斗米庵、心遠館、また錦街居士などと称しています。
伊藤若冲の歴史
伊藤若冲は1716年に京都府の青果問屋に長男として生まれました。生家は現在の錦市場のあたりでもある錦小路に位置しており、青果の販売だけでなく、問屋として複数の商人に場所を貸し出し場所代を受け取るという、商人たちの統括も行っていたと言われています。幼少期から絵に興味を持っていた伊藤若冲は、その後10代の頃から絵の勉強を開始。狩野派の絵師・大岡春卜や南蘋派の鶴亭らに教わったと言われていますが、やがて自らが教えを受ける流派の技法に、自身の作品がとらわれてしまうことを危惧し、独学で絵の修行を積むようになりました。京都府内の寺院に納められた中国画をひたすら模写して周り、宋元画を研究していく内に、自身も修行僧のように頭を丸め“錦街居士”と称した期間もあります。
その後20代前半の頃に父が亡くなると青果問屋を継ぐこととなり、店の名前を併せた家督、枡屋源左衛門の名を襲名すると、以降約17年の間、家業と画業を並行。やがて40代の頃にその家督を弟に譲ると、絵師としての活動を本格的なものにしていきました。特に、写実的な技法を極める為にこの頃から家で数十羽の鶏を飼育して徹底的に観察を続け、数年かけて観察、写生を行ったことは代表作の『動植綵絵』の完成に繋がっていき、そのほかにも金閣寺で有名な鹿苑寺や、香川の金刀比羅宮の壁画・襖絵を手掛けていきます。また、“若冲”の号はこの間に禅僧から授けられたものとも言われており、独自の画風を確立すると、水墨画や版画、屏風絵など幅広い作品に打ち込みました。
このように作画に注力する一方で、伊藤若冲は一時期、生家周辺の町役人も務めています。商売敵の策略で錦市場が閉鎖の危機に陥った際にはその阻止と再開のために奔走し、多くの人にかけあい、京都奉行所をはじめとした各所に足を運びました。この間は作品の制作数も少ないようですが、その後も絵師としての活動は続き、強力な後ろ盾などはないものの、当時活躍した円山応挙にも並ぶ絵師として名を広めています。
晩年、70代前半の頃には京都で起こった明暦の大火によって家や私財を失い、一時は大阪へ転居することとなりました。それまでは隠居として過ごしていた伊藤若冲でしたが、これをきっかけに生活費を稼ぐため作品を制作するようになり、大阪や京都の寺院にて大型の障壁画を制作するなどしています。やがて京都に戻ると伏見にある石峯寺にて、自身の末弟の妻であった義妹と共に隠居。最晩年には10年の歳月をかけて制作した、釈迦の一代記を表現した大作を石峯寺に納めました。
そして1800年、85歳で息を引き取っています。