漆工とは、樹液から作られる漆を器の表面に塗り重ねて様々な装飾を施す伝統工芸です。日本では縄文時代の前期から漆器が存在したと言われており、時代と共に技術は発展し、奈良時代の有名な仏像彫刻「阿修羅像」の制作は漆と布だけで作られています。また、漆工には蒔絵や螺鈿など様々な装飾方法があり、平安時代にはお堂全体が漆工芸品で作られた「中尊寺金色堂」が出来上がりました。
このように古くから日本の伝統工芸として親しまれていた漆器が初めて海外へ渡ったのは、宣教師のフランシスコ・ザビエルが来日した頃です。黄金色に美しく装飾された漆器は当時から海外の人々を魅了し、その後日本が鎖国していた最中も、長崎の出島から大量に輸出されていました。特にフランスのマリー・アントワネットの蒔絵の小箱コレクションは有名です。これがきっかけとなり、当時からヨーロッパではこの日本独特の漆や蒔絵の工芸品を「japan lacquer」あるいは「japan」と呼んでいるそうです。
そして明治時代、ウィーン万博でも多くの漆芸品、特に金色が豪華な、「蒔絵」の施された作品が出品されると日本の漆工芸品は改めて評価され、世界中に広まっていきました。これ以降、国内でも残っていた質の高い作品はほとんど海外へ渡り、作品の制作も外国を意識したものとなっていきました。
蒔絵とその名工
蒔絵とは漆器を装飾する代表的な技法です。漆器の表面に生漆を使って絵や模様を描き、その上に金粉や銀粉を蒔いて乾燥させることで模様を表現します。平安時代の頃から蒔絵の技法を用いた作品は制作されていたようですが、徐々に庶民にも広まり、技法の種類も増えていきました。
☆柴田是真(しばたぜしん):
江戸時代末期から明治時代中期に活躍した漆工家兼日本画家です。11歳の時に蒔絵の技術、16歳の時に円山派の絵を学んでおり、大胆かつ精密な表現を得意としていました。是真は、元禄に考案されたもののそれまで途絶えていた「青海波塗」と呼ばれる技術を復興させたほか、多くの新技法を開発し、帝室技芸員に任命されました。
代表作としては、万博で賞を受賞した、金色の背景に富士山と田園風景を表現した『富士田子浦蒔絵額面』や、重要美術品となっている「羅生門」に住む鬼をモチーフにした作品『鬼女図額面』などがあります。
☆池田泰真(いけだたいしん):
江戸末期から明治時代にかけて活躍した漆工家兼蒔絵師で、柴田是真の一番弟子と言われています。鎌倉八幡宮の什宝修理などにも従事し、1859年に独立しました。師の柴田是真と共にウィーン万博で進歩賞牌を受賞すると、内外の博覧会でも多くの賞を受賞し、1896年には帝室技芸員に任命されています。
代表作には1893年にシカゴ万博に出展された『江之島蒔絵額』があり、金銀を用いた蒔絵で江の島を立体的、且つ写実的に表現した作品になっています。
☆川之邊一朝(かわのべいっちょう):
幕末から明治にかけて活躍した漆工家兼蒔絵師です。12歳の頃に徳川将軍家に仕えた蒔絵師の下に入門し、21歳で独立しました。明治以前は将軍家や和宮の調度品制作等を行い、時代が明治になると海外の万国博覧会に積極的に参加していきました。その後帝室技芸員、また東京美術学校教授となりながら、自身の制作を続けました。
代表作にパリ万博で大賞を受賞した「石山寺蒔絵文台・硯箱」、図案と彫刻で六角紫水や海野勝珉との合作となった「菊蒔絵螺鈿棚」があります。
☆白山松哉(しらやましょうさい):
明治から大正にかけて活躍した蒔絵師です。蒔絵以外にも漆工芸品に直接彫刻を施す彫漆や、表面に貝を貼り付け漆で接着する螺鈿など、漆工芸品装飾について多くを学びました。特に松哉は蒔絵の上に漆を塗りつけ磨き、独特の雰囲気ある模様を表現する「研ぎ出し蒔絵」と呼ばれる技法や、漆工芸品では表現が難しい等間隔の渦巻き模様の表現に長け、1963年、帝室技芸員に任命されています。
代表作に、蒔絵で美しく咲く一株の梅を表した「梅蒔絵硯箱」や、「蝶牡丹蒔絵沈箱」などがあります。
☆六角紫水(ろっかくしすい):
明治時代から昭和初期にかけて活躍した漆工家です。東京美術学校の一期生として入学して漆工を学んだ後、自身も教壇に立ちながら日本の宝物や漆器の技法の研究と応用作品の制作にあたりました。1925年のパリ万博での受賞の他にも、中尊寺金色堂など国内の美術作品の修復、さらには白漆の発明など、幅広い功績を残しています。
代表作としては、1930年に帝展で帝国美術院賞を受賞した「暁天吼号之図漆器手箱」、またキリンビールのラベルに描かれた麒麟のデザイナーとして有名です。