天保通宝は江戸末期、1835年(天保6年)から明治時代にかけて約56年の間、日本で流通した銭貨です。縦約5cmほどの小判型をしたもので、寛永通宝などと同様、中央に正方形の穴が開けられており、「天保銭」とも呼ばれています。表には「天保通宝」、裏面には穴の上部に「當百」と記され、穴の下部には後藤家の花押、さらに左右の側面に桐の紋の形の極印がついています。
後藤家とは江戸幕府で銭貨の鋳造、また検印や鑑定を行った「金座」の支配人のことで、当時金座の支配人だった後藤家13代目の後藤三右衛門光亨は、浜松藩主水野忠邦に新たな貨幣「天保通宝」の鋳造を提案し、天保通宝誕生のきっかけとなりました。
本物と偽物の「天保通宝」
天保通宝は後藤三右衛門率いる金座主導で鋳造が行われ、使われる材質の割合が厳密に規定された高額銭貨となりました。当時の貨幣価値でいうと100文です。目安としては江戸庶民に親しまれた蕎麦が1杯約16文、米1升が100文と言われているのでかなり価値が高かったことが分かります。いわゆる官鋳銭となった天保通宝は、庶民の憧れとして受け入れられましたが、大量発行されたためにその価値は100文から40文ほどまで落ち、幕末には多くの偽造が頻発します。この贋作の天保通宝と幕府の金座主導で鋳造された天保通宝は、それぞれ区別して「藩鋳銭(地方密鋳銭)」、「本座銭(公鋳銭)」といいます。
藩鋳銭の流通は本座銭の価値の下落に拍車をかけていきました。当時の本座銭の推定鋳造枚数が4億8500万枚であることに対し、その後明治政府によって回収された天保通宝は5億8674万枚にもなるといわれています。地方で偽造された密鋳銭の流通が市場の15%以上を占められていたことが伺えます。
現在の本座銭と藩鋳銭
大量に生産された天保通宝は、今でもコレクションする方がいるほど多く残っています。しかも、当時は贋作扱いだった藩鋳銭も、今ではそれぞれの藩で生産された本物の「~(藩)鋳銭」として高い価値の付くものもあります。ここでは本座銭と藩鋳銭の大まかな特徴を紹介します。
~本座銭~
中央に開いた四角い穴の枠を「郭(かく)」と呼び、その長さや幅の違いによって「長郭」(穴が縦長)、「細郭」(正方形で細い)、「広郭」(枠が太い)、「中郭」(枠の太さが広郭と細郭の間程)と分類されています。また厳格に定められた規定では、重さは21.75g~19.5gの間とされています。
~藩鋳銭~
天保通宝は、寛永通宝の1文銭8枚で作ることができます。勢力ある大きな藩の多くが藩鋳銭を作っていました。中でも薩摩藩、秋田藩、水戸藩などが多く作ったとされています。薩摩藩のものは中央の穴がやや横長なので別名「ガマグチ」とも呼ばれています。また秋田藩のものは阿仁銅山の材質を使った赤い銅質、水戸藩は表面の「天保通宝」の文字の雄大な書体が特徴です。
他にも天保通宝は大量に製造されているため、時期や場所により価値には開きがあります。刻印の一部の長さや幅が若干異なったり、文字の間隔など見分けるのは非常に難しいですが、コレクターの方には根強い人気のある古銭の1つです。